第一章 「道」ってどうしてできたと思う?

 

「道」と宿場町

 

五街道は、江戸の日本橋を起点にしています。
日本橋は今でも主要な国道の起点になっていて、道路の起点であることを示す「日本国道路元標」が置かれています。道路元標は交通量の多い橋の真ん中に埋められていて、歩道からは見えません。
そこで橋のたもとに複製を置いて、誰でも見られるようにしています。
 

 

五街道の整備のしかた

五街道は、幅の広い道路でした。広いところでは14メートルもの幅があったと言われています。

一里塚(いちりづか)

4kmおきに、目印となる一里塚を整備することが定められていました。街道の横に土を高く盛り上げ、その上に榎や松を植えて目印にしたのです。一里塚はそのままの姿で保存されているところがいまでもたくさんあります。
 
 

中山道の志村一里塚(東京都板橋区)は、江戸時代に作られたもの。

街路樹(がいろじゅ)

街道沿いには木を植えることも定められていました。
歌川広重の「東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎ」という浮世絵を見ると、街路樹が植えられた街道の様子が分かります。五十三次というのは、東海道に設けられた53ヶ所の宿場のことです。
 

宿場(しゅくば)

宿場には、幕府の荷物や郵便物を運ぶための人や馬を用意する決まりになっていました。運ぶのは次の宿場までで、そこで人も馬も交代します。江戸から京都の間には53ヶ所の宿場があってそこで継ぎかえ(交代)をするので、東海道を五十三次と呼ぶようになりました。
 

東海道の最初の宿場 品川宿

 
宿場には、宿泊や休憩のための施設も整備されました。大名はカゴに乗って街道を移動しましたが、多くの人は歩いて移動しました。
京都から江戸まで東海道(約490km)を歩くのに、2週間ほどかかったそうです。途中の宿場で宿泊しながら、毎日30キロメートル以上歩き続けたのです。
 

宿泊施設

一般の人は宿場に着くと、旅館である旅籠はたごや木賃宿に宿泊します。大名は、本陣と呼ばれる格式の高い宿舎に泊まります。ここは一般の人は泊まることができない場所です。
 
宿場から発展した町では、本陣跡が史跡として整備されているところがあります。本陣跡を示す石碑やプレートなどを見つけることができます。
 

中山道の蕨宿本陣跡(埼玉県蕨市)