歴史の「道」
「道」が作られると、「道」を通じて人やモノや情報が交流します。
人やモノが交流すると、商業や工業が発達します。人と情報が交流すると、文化が生まれ歴史が作られます。
「道」は、人の生活や文化、歴史に深い関わりを持っています。
塩の道
塩は、人間が生きて行くのに欠かせないもので、ほかのもので代用することもできません。
日本では、昔から海水を煮詰めて塩を作っていました。そのため海の近くで作られた塩を内陸に運ぶための道が必要でした。
日本のあちらこちらに「塩の道」と呼ばれる道があります。
山に囲まれた信州(長野県)には、日本海と太平洋の両方から塩が運ばれました。日本海側では、糸魚川と松本を結ぶ千国街道が「塩の道」です。
牛に塩や海産物などの重い荷物を背負わせて、険しい山道を登って運びました。
牛が道ばたに生えている草を食べてなかなか前に進まないことから、他のことに時間をついやしてしまうことを道草を食うというようになりました。
太平洋側から塩を運ぶ「道」が、秋葉街道です。静岡県の浜松からいくつもの峠を越えて、諏訪まで続く道です。
途中の青崩峠と呼ばれるところが一番の難所でした。現在でも国道152号線は、この峠のために途中で通行止めになっています。青崩峠にトンネルを掘る工事は、計画から40年が過ぎて今も続けられています(2023年5月26日貫通)。
通行がむずしい険しい峠ですが、生命に欠かせない塩を運ぶための「道」として古代から活用されてきました。
金の道
江戸幕府が成立するとすぐに、徳川家康は佐渡島を幕府が直接支配する領地(天領)にしました。佐渡島では金や銀が掘り出せるからです。
家康は鉱山技術の専門家を全国から集めて金銀鉱山の開発を進めました。佐渡島では、掘り出した金や銀から不純物を取りのぞいて小判の製造まで行いました。
小判や金銀を江戸まで運ぶために作られたのが、佐渡と江戸を結ぶ「金の道」です。
佐渡島で金銀小判を積んだ船は、対岸の出雲崎で荷物を陸にあげます。そこで100頭をこえる馬に金銀小判を乗せて、厳重に警備しながら江戸まで運びました。
金銀は「御金荷」と呼ばれ、出雲崎から追分(軽井沢)まで北国街道で運び、そこから先は中山道を使って江戸まで運びました。
北国街道は五街道には含まれませんが、幕府が北国街道を重要な「道」と考えていたので、五街道と同じように整備されました。
「金の道」の宿場には、他の街道にはない設備がありました。「御金荷」をしまっておく御金蔵です。御金蔵には鍵をかけた上に封印をして、厳重に警備しました。
「金の道」は、江戸時代の幕府の財政を支える重要な道でした。オランダや中国との取引にも金や銀が使われたので、「金の道」は海外貿易も支えていたのです。
川の道
関ケ原合戦で勝った徳川家康が、すぐに自分の領地にしたところがほかにもあります。
良質な木材の産地である木曽です。木曽川上流の森林地帯のヒノキは昔から人気があり、城や寺社などの建設にも使われていました。
江戸を都市として発展させるためには多くの木材が必要です。家康は木曽を自分の領地にして、江戸の発展に必要な木材を確保したのです。
材木の運び方
それでは、山で切り出された木材は、どのようにして江戸まで運ばれたのでしょうか?山国である日本には、無数の川があります。川も「道」のように、モノの輸送や人の移動に使われました。
山の中の森で切り出した木材は、枝を切り落とし、表面の皮をはいで丸太に加工します。
丸太は、すべり台のようなもので山から降ろされたり、「そり」に乗せて川まで運ばれました。川に落とされた丸太は、流れに乗って下流に下ります。
流れの弱いところに網を張って、流れてきた丸太をせき止めます。せき止めた木材を横にならべていかだを作り、さらに川を下ります。
いかだが河口までたどりつくと、丸太は船で江戸まで運ばれます。
川は内陸と海を結んで、木材だけではなくさまざまなモノを運ぶ「道」でもあったのです。
愛媛県内子町 川まつりのいかだ流し
海の道
日本はまわりを海に囲まれた島国であり、山が多く平地の少ない山国です。
重い荷物や大量の荷物は、舟を使って海や川で運ぶ方が早くて安全な場合があります。外国と貿易をするのにも、船による輸送は欠かせません。
日本のまわりの海流を使って、効率よく風をとらえると安全に航海することができます。途中で船が壊れたり、風に押し流されたり、嵐に巻き込まれて遭難してしまうこともありましたが、天気を予測して安全に「海の道」を通るための工夫がされました。
縄文時代から、人々は船で海を渡っていました。
大昔から人は「海の道」を使って移動していましたが、海を使ったモノの輸送が本格的になるのは平安時代からです。主に日本海側から、瀬戸内海や琵琶湖を通って都までモノが運ばれました。
鎌倉時代になると大型船が作られるようになり、日本海側だけではなく太平洋側でも海上輸送が行われるようになります。
江戸時代には、東廻り航路・西廻り航路というふたつの「海の道」が利用されます。江戸と大阪をむすぶ南海路は、貨物船がひんぱんに行き来し、人が乗って旅をすることもできました。
市場の道
五日市や四日市のように、地名に「市(いち)」がつく町が日本のあちらこちらにあります。このような地名は、定期的に「市」が開かれる場所でした。
五日市であれば五のつく日に市が開かれ、八日市であれば八のつく日に市が開かれます。
市にはさまざまなモノを売る人や買う人が集まってきます。ですから市が開かれるところには、モノを運び人が移動するための「道」がありました。
江戸の西側の山で作られる木炭は五日市に集められ、そこから江戸に運ばれました。五日市と江戸を結んで木炭を運ぶ道は、「道」が五日市街道と呼ばれるようになりました。
三重県の四日市市は東海道の宿場町ですが、東海道と伊勢街道との分岐点でもありました。
道が分かれるところを追分といいます。ここは日永の追分と呼ばれることろで、道標が建てられています。
東海道と伊勢街道が分岐するところに建てられた道標
東海道五十三次 絵本駅路鈴の「四日市」
伊勢街道の入り口となる鳥居と道標が描かれている
商業の道
琵琶湖は、奈良時代から近江と呼ばれていた場所にあります。ここにはたくさんの街道が集まっています。
琵琶湖を取り囲むように、南の東海道、北の北国街道、東の中山道、西の若狭街道が通っています。さらに御代参街道や朝鮮人街道、八風街道が五街道をつないでいます。近江は日本の東西を結ぶ交通のかなめでした。
いろいろな街道が集まるところには各地から多くの人がやって来て、さまざまな地域のモノや人が交流して情報も集まります。
いつの時代でも商売に必要なものは情報です。どこで売れば高く買ってくれるか、どんなものが人気なのか、といった情報があれば有利に商売ができるからです。各地の情報が集まる近江出身の商人は全国で活躍するようになり、近江商人と呼ばれるようになります。
国府や守護所などがおかれた国々の中心地には、海から離れた内陸の場所もあった。そのそばには川があって、海から品物を運搬したり、国内から国府に集まった物資を、川を使って海に運んで都や遠い地方へ運んだりしていたんだ。
今の川は、工業用水や田畑の灌漑用水、人々の飲料水で大量に水をくみ上げられているから水位が低く浅い感じだけど、昔は底の浅い川船が往来するのに十分な深さがあったらしい。海まで運べばより大きな船に乗せ換えて海路を遠くまで運んだんだよ。だから、道は海だけでなく「川の道」もあったということだ。