第三章 歴史の「道」を探してみよう
古文書で手がかり発見
天文四(1535)年三月二十一日 田地寄進状
山城国綴喜郡田辺郷にあった田んぼを京都の梅宮大社に寄進した古文書です。「四至」といって寄進した土地の東西南北の境が記されています。
東側は「際目」つまり田辺郷と接する他郷の境界、南北と西の三方の境界は「縄手」、つまり直線道路に接したところが境界とかかれています。
道は土地の権利証書に記される土地の場所を区切る役割があったことが分かります。
応永二十(1413)年六月二日 敷地沽券
沽券というのは、土地の売買券で、いまでも「こけんにかかわる」という言葉が残っているくらい大切な土地の所有権を証明する古文書です。
清涼院の敷地を売却するときにその範囲が記されています。四至には、東側を車大路で限ると書いてあるので、牛車が通行できる幅広い道が境界になっていました。ここでも道が境界として利用されています。道が土地所有の境界になっているのはいまでも同じですね。
貞和五(1349)年二月十日
田地 沽券(売券)
四至の境には、西「道祖路」と記されているから売却する土地の西側が道で区切られていたことが分かります。
寛喜二(1230)年三月二十二日
野田家地沽券
山城国野田郷大路の南辺にある家地の売却を記す沽券です。
四至には北が「大路」を境としていることが記されています。大きな道に接している土地だから、間口が二間しかないのに価格が米十石と高価です。
寛喜二年は有名な寛喜の飢饉の最中だから、米価は高騰していたのでかなり高い値段で売っていることになります。