第一章 「道」ってどうしてできたと思う?

 

道の名前

 

江戸時代には、五街道を中心として全国に「道」のネットワークが作られました。

五街道(ごかいどう)

五街道は、江戸の日本橋を起点とする主要道路で、東海道とうかいどう中山道なかせんどう甲州街道こうしゅうかいどう奥州街道おうしゅうかいどう日光街道にっこうかいどうの5つです。
江戸に幕府が開かれて政治や経済の中心となり、そこから全国に「道」が伸びて行ったのです。
 

 

五街道は道幅が広く作られ、大名の参勤交代にも使われました。参勤交代は、大名が一年おきに江戸と国もと(領地)を行ったり来たりする制度です。参勤交代のために、大名はおおぜいの侍や従者を連れて街道を通行しました。これが大名行列です。

大名行列の道

大名行列は、大名がその力を誇示するためのパレードです。槍や刀、鉄砲などの武器を持つ侍や、生活道具をかつぐ従者などが列を作って行進するので、幅が広く歩きやすい「道」が必要になります。

五街道だけでは地方の大名が江戸に行くことができないので、五街道から分岐したり先に延びる多くの「道」が作られました。それが脇往還わきおうかんや脇街道です。
脇街道の代表である山陽道や北陸道は、五街道と同じ規模の「道」だったと言われています。

東海道五十三次の「岡崎」、矢矧之橋やはぎのはしを渡る大名行列を描いたもの。
橋の向こうに岡崎城が見える。

 

街道と宿場

大名行列が通るためには、途中で休憩したり宿泊するための施設も必要です。そのために作られたのが宿場しゅくばです。宿場町がその後発展して大きな町になったところがたくさんあります。今でも昔の宿場町の雰囲気を残している観光地もあります。
 

江戸時代の景観を残す大内宿・福島県南会津郡下郷町

五街道につながる脇街道

水戸街道は、江戸の千住と水戸(茨城県)をつなぐ街道です。水戸徳川家と江戸を結ぶ重要な「道」でした。
 
北国街道ほっこくかいどうは、中山道の追分宿おいわけしゅく(軽井沢)から直江津(新潟県)をつなぐ街道です。三国街道みくにかいどうは、中山道の高崎宿から分かれて寺泊(新潟県)をつなぐ街道です。
 
このように、五街道を中心に「道」のネットワークが全国に作られるようになると、人やモノや情報が各地を行ったり来たりするようになって経済や文化が発展します。
 

 
江戸時代には、商業や観光のための「道」も作られるようになります。魚を運ぶための鮮魚街道、霊場をめぐるための巡礼道などです。
「伊勢街道」は、東海道の四日市宿から分かれて伊勢神宮をつなぎます。江戸時代には、伊勢神宮を参拝する人々でにぎわいました。

コラム:道の名前が変わる

同じ道なのに、時代の流れの中で道の名前が変わることがある。 東京都の大田区に、都から奥州東北地方に行く、「古東海道」が通っていた。この道は、江戸時代には川崎の平間地区と江戸とを結ぶ道だと意識されて、「平間街道」とよばれるようになっていたんだ。鎌倉時代には、鎌倉から地方を結ぶ道の一つ「下道」とよばれていたんだけど、鎌倉時代以前は東海道で「古東海道」とも言われているんだ。 現在でも、大田区の大森駅まえから西に大きな道があって、「ジャーマン通り」という名前がついているんだけど、昭和の中頃までドイツ学園というドイツ人子弟の学校があったからなんだよ。でも今は学校がなくなって時間がたったしまったから、地元の住民でもなぜジャーマン通りというのか知らない人が増えている。いつの日にかこの道には違う名前がついてしまうんじゃないかな。