第二章 いろいろな道を見てみよう

 

街道や脇街道の役割

 

インフラという言葉を聞いたことはあるかな?インフラストラクチャーの略で、生活に必要ないろいろな基本設備のことだよ。

電気とか水道とかガスのことですね。

鉄道、通信、学校や病院もインフラだよ。もちろん道路もインフラのひとつだ。

「インフラ」という言葉を聞いたことはありますか?
インフラストラクチャーの略で、生活に必要ないろいろな基本設備のことです。
水道、電気、通信、鉄道、病院など、人の生活を支える設備が「インフラ」です。
道路もインフラのひとつです。

 

 

昔の権力者は、国や地域を支配するために「道」を整備しました。
権力者の命令を地方に伝え、地方のようすを知り、税金を集め、軍隊を送りこむために「道」を整備したのです。
「道」が整備されると、地域がつながり、人やモノや情報がゆきかい、しだいに「道」のまわりの地域が発展し、産業も盛んになり、いろいろな文化も生まれます。
今も昔もたいせつなインフラである「道」の役割を見てみましょう。

五街道と脇街道

軍事道路の役割

軍事道路
 
戦国時代の城と「道」は、切り離せない関係にありました。江戸時代になっても幕府は反乱軍と戦うことを前提に「道」の整備を進め、五街道も軍事道路としての役割を持っていました。どこかで反乱が起きたらただちに軍隊を送り込むための「道」です。

大名行列だいみょういぎょうれつを通す役割

長州藩の参勤交代行列が、江戸高輪付近を通るようすを描いたもの

 

江戸幕府が定めた五街道は、すべて江戸から地方に延びる道です。将軍のいる江戸が政治や経済の中心となり、地方の大名は定期的に江戸の将軍にあいさつに行くことが決められていました。大名は、1年おきに江戸と地元の領地をいったりきたりします。参勤交代さんきんこうたいという制度です。
 
五街道によって、京都から白河までのおもな地方都市が結ばれますが、これだけではすべての大名が江戸と地元を往復することはできません。そこで脇往還わきおうかんといわれる「道」が整えられます。
 
五街道は、道幅や作り方などが決められた道路です。宿場や一里塚などの設備を整えて、幕府が管理しました。脇往還は、その地域の大名が管理しました。五街道には幕府が定めた名前がありましたが、脇往還には正式名称がないのでいろいろな名前で呼ばれました。

商業を盛んにする役割

参勤交代は、将軍が大名を従わせるための仕組みでした。大名は、領地と江戸に一年おきに交代に住んで、江戸にいる間は将軍のために働きます。領地と江戸を行ったり来たりするために、大名の警護をする侍やたくさんの生活用品を運ぶ従者たちが行列を作って行進します。これが大名行列です。
 
大名行列の人数は藩によって異なりますが、150人から300人ほどでした。大きな藩では1,000人を超えることもありました。大名行列は、宿場で宿泊や休憩をしてそこでたくさんのお金を使います。宿場には生活用品や名産品などを売る店も集まります。大名行列が通過する道は歩きやすいように整えられて、おおくの人が通行する「道」になります。おおくの人が通行することで、人やモノやお金の流れが活発になり、商業が盛んになります。そして宿場が町として発展します。
 

文化を伝える役割

参勤交代では、大名のお供として江戸にやってくる人々がいました。
江戸のお供としてやってきて、大名と共に一年間江戸で生活します。江戸には学者も多く、大人が学ぶ塾や道場もたくさんありました。多くの出版社があり、地方には届かない本を手にすることもできました。芝居などのエンターテイメントや、面白い遊び場もたくさんありました。
 

葛飾北斎・金竜山二王門之図

 

江戸では、地元では学べない先端知識にふれたり、さまざまな体験をすることができます。江戸滞在中に学んだことや体験したことを地元に帰って他の人に伝えることで、知識や文化が広まります。それだけではなく、各地の人が江戸に集まって交流する中で新しい文化も生まれます。参勤交代による人の移動が、文化の交流や広がりを生みだす原動力になりました。
 

渓斎英泉・江戸八景日本橋の晴嵐

 

特産品を運ぶ役割

江戸時代には、農業だけではなく林業や漁業も発展し、各地で酒、しょうゆ、和紙、陶器、工芸品などの特産品が作られるようになりました。
特産品の最大の消費地は江戸です。
陸路だけではなく、船を使って大量の特産品が江戸に運ばれました。
 
その中でも特別に扱われていたのが、将軍に献上する品物はです。
京都・宇治のお茶を江戸まで運ぶ「お茶壷道中おちゃつぼどうちゅう」では、お茶が入れられたつぼをかごに乗せ、400人を超す大行列で運びました。
 
御茶壷道中を描いた浮世絵には、将軍の紋章のおおいがかぶせられたカゴにお茶が入ったツボを乗せ、おおぜいで警備して運ぶようすが描かれています。
 

御茶壺之巻・国立国会図書館デジタルコレクション

情報伝達の役割

電話もメールも無い時代は、手紙や文書で遠くの人に情報を伝えました。
五街道の宿場には、荷物や文書を運ぶ人足と馬を用意しておく決まりになっていました。
 
人足や馬は、次の宿場まで文書や荷物を運びます。そこで人足と馬が交代してまた次の宿場まで運びます。これを伝馬でんま制度と言います。
宿場があった町には「伝馬町」という地名が残っていることがあります。
そこで人足や馬が交代していたことが地名から分かります。
 
伝馬と同じように、荷物や手紙を預かって走って届けるのが飛脚ひきゃくです。
飛脚には、3つの種類がありました。
 

 
公用飛脚
江戸幕府の飛脚です。幕府の公文書などを運びます。
大名飛脚
大名が江戸と地元の連絡のために設けた飛脚です。
町飛脚
民間の飛脚です。商売の連絡や一般の手紙の配達などもおこなっていました。
 
飛脚は荷物の入った箱を肩に担いで走ります。10kmほど走ると次の飛脚に交代します。江戸から京都までの500kmを、わずか3~4日で走ったそうです。

観光旅行の役割

江戸時代は、庶民も盛んに旅行をしました。
日本に来た外国人も驚くほど、庶民の旅行者が多かったのが江戸時代です。
旅ブームの火付け役になったのが、「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ」です。
江戸から伊勢神宮に参拝に行く弥二さんと喜多さんの道中を、おもしろおかしく描いた本が評判になり、おおぜいの人々が伊勢を目指すようになりました。
 

 
さらに、歌川広重が東海道の名所を描いた「東海道五十三次」によって、おおくの人が旅へのあこがれを抱くようになりました。
各地の名所を描いた「名所図会」が出版され、旅のガイドブックとして使われました。
宿場町には庶民が泊まる旅籠はたご木賃宿きちんやどが建てられ、地元の名物を売るお店や娯楽施設も作られて、旅行客をもてなして楽しませました。

どうやって川を渡ったか?

江戸時代には、通行を制限するためにあえて川に橋を作らない「道」がありました。また、川幅の広さや流れの速さのために、当時の技術では橋を作れない「道」もありました。川に橋がないと、「道」はそこで途切れてしまいます。
 
橋がない場所では、どのようにして川を渡ったのでしょうか?
 
舟でわたる

渡し舟があるところにでは、渡し賃を払って舟で川を渡りました。
渡し船が発着するところを「渡し」といいました。
 

東海道五十三次の「川崎」、多摩川を舟で渡るようすを描いたもの

 

渡し舟の発着場があったところには、石碑や案内板が建てられていることがあります。
 

中山道の荒川には橋がなく舟で渡っていた

 

川越かわごし人足に運んでもらう

東海道の大井川には橋がなく、渡し船も禁止されていました。
大井川を渡るには、川越し人足に肩車をしてもらうか、れん台というものに乗って人足に運んでもらいました。
大井川を渡るには川札という切符を買わなければなりませんが、切符の値段は川の深さや流れる水の量で変わりました。
 

東海道五十三次の「府中」(現在の静岡市)
安倍川を渡るようすを描いたもの

 

雨が降って水の量が増えると、川を渡ることが禁止されました。
これを「川止め」といいます。
川止めが何日も続くと大名行列も宿場から動けなくなり、旅費がかさんで困ったことが伝えられています。
 

東海道五十三次の「嶋田」。
大名行列が大井川を渡るようすを描いたもの。

 

舟を並べて橋を作る

川に小舟を並べてその上に板を敷いて橋のようにしたものを、船橋せんきょうと言います。
千葉県の船橋ふなばし市は、川の河口に船橋を作ったことから付けられた地名です。
橋がない場所でおおぜいの人が川を渡らなければならないときに、臨時の橋として作られました。
また、大雨ではんらんするような川に、仮の橋として作られることもありました。
 

コラム:昔の道だったところにはお金が落ちている

発掘して今の地面から掘り下げると、踏み固められた面がでて、そこが昔の道だったんだ。 踏み固められた面で道幅もわかるけど、よく昔のお金が落ちていて、ぜにの種類でその道がよくつかわれていた時代がわかるんだよ。日本のぜには、平清盛の時代から中国から輸入してきた銭を使っていたんだ。たくさんの種類があって、時代によって流通していた銭が変わるから、落ちている銭を見れば時代が分かるんだよ。