第四章 歴史の「道」を歩いてみよう

 

「道」のフィールドワーク

 

実際にフィールドワークを行った、さまざまな「道」を紹介します。それぞれの「道」に特徴があり、どのようにしてその土地と結びついているのかを見てみましょう。

 

鯖街道(さばかいどう)

鯖街道さばかいどうは、越前(福井県)の若狭湾でとれた魚介を京都の都に運んだ道です。
 

 
昔は冷凍できないし夏は氷もないから、塩を魚にまぶして杉や笹の葉に包んでいたまないようにして運んだんだよ。
塩はもちろん、鯖を包む植物の葉っぱにもある程度の殺菌効果があるのを経験的に知っていたんだろうね。運ぶのに一日くらいかかったから、ちょうど塩が魚にちょうどよくなじんで具合がよかったらしい。
 

京都は江戸時代には江戸の次に人口の多い町だったので、鯖街道は多くの人々の食生活を支えた「生活の道」であり、「運搬の道」でもあったんだ。
 
鯖街道の名前は、運ばれた魚介の中で鯖が一番多かったのでつけられた名前みたいで、今でも小浜や京都には鯖の押し寿司のお店がたくさんあるのはその名残りだよ。
 

 

 

銀山街道

戦国時代には日本で産出する銀は、世界中でとれる銀の三分の一にもなっていて、その中で最もたくさんの銀がとれたのが、島根県の石見銀山いわみぎんざんです。
 
石見銀山の名前は、朝鮮や中国だけでなくスペインやポルトガルなどのヨーロッパ諸国にも有名で、当時のヨーロッパで作られた世界地図に載っているくらいなんだ。石見銀山は、世界遺産に登録されています。
 

石見銀山でとれた銀は、近くの温泉津ゆのつの港から船で運ばれたり、銀山街道と名付けられた「運搬の道」で運ばれて、中国山地の峠を越えて山陽の尾道まで運ばれてから瀬戸内海航路で京都に運搬されていたんだよ。
 
当時の銀山街道は、当時の道が山の中に残されているけど運搬の道としては使われていないんだ。
 

産業道路

工業地帯を通って工業資源や材料を工場に運んだり、完成した工業製品を港などへ運搬する道路があります。貨物を運搬するための道で「産業道路」と呼ばれます。同じ名前の道は、全国にあります。
 
東京では、大田区と横浜の鶴見を結ぶ道が産業道路として知られています。京浜工業地帯を支える運搬の道です。

塩の道

昔は人間の生存に欠かせない塩は、全て海から製塩されて内陸に運ばれていたんだ。
塩の道で有名なのは、千国街道ともよばれた新潟県糸魚川から長野県塩尻への道だ。塩尻なんて言う地名が長野県のど真ん中にあるのはその名残だよ。
遠江国相良から塩尻に太平洋側の塩を運んだ秋葉街道も、また塩の道として知られていた。人間が生きていくのに絶対必要な塩を運んだ道だから、生活の道 運搬の道、ということができるね。
 

東京の中に残る古い道

平安時代から戦国時代まで、長い間利用されていたのが、古東海道です。
今でも東京の町中では、古東海道の一部が生活道路として使われています。
 

これは、東京都大田区の風景です。この道は、江戸時代には川崎の平間につながる道で平間街道と呼ばれていました。
 
また、江戸市中から池上本門寺いけがみほんもんじに参詣する人々が利用する道だったので、池上往還いけがみおうかんとして知られていました。今でも旧池上通りと呼ぶことがあります。
道沿いに建てられた石碑には、「いにしえの東海道」と書かれています。
 

 

荘園からの年貢の道

平安時代から室町時代後半の戦国時代まで、日本には大小たくさんの荘園があったんだ。
東大寺、伊勢神宮、摂関家をはじめ大寺社や貴族たちの荘園。そこから荘園領主のもとに、各地の荘園から年貢の米だけでなく特産品なども運ばれたんだ。膨大な物資をたくさんのに人が運搬して京都と地方を往復していたので、宿場も古くから発達していたんだよ。
 
宿場というと江戸時代の宿場町が有名だけど、ずっと古い時代から街道には宿や食事を提供するお店があったんだ。

コラム:江戸時代のダム
木曽川の材木を川の流れを利用して海に運んでから大きな筏をくんで江戸や大坂をはじめ遠くまで運んでいた。長い材木を陸路で運ぶことはできなかったんだ。お城に使う石垣の石も同じだよ。材木として伐採される木は、今でも同じで大木ほど価値が高いんだけど、山奥に林道がある現在と違って、山奥からの大木をどうやって運んだかわかるかな? 小さな谷ごとにダムをつくって、切り倒した木の枝を取り払って丸太にして、水をためた谷からダムを壊して下に流すんだ。この方法で小さな谷から大きな谷へとおろして、川まで流したら海へ運んだ。