時代と「道」の役割
戦いが繰り返される戦国時代と、平和が続く江戸時代とでは、「道」の果たす役割も変わります。同じ道でも時代のうつりかわりによって、「道」に求められる役割も変わります。
時代によって「道」の役割がどのように変わったかを見てみましょう。
鎌倉時代の道
鎌倉時代、室町時代の中世の「道」について、いくつかの紀行文が書き残されています。
紀行文は、実際に旅をした人が宿泊場所や道のようすを日記風に記したものです。紀行文によって、当時の「道」のようすを知ることができます。
鎌倉時代後半の1279年に、京都から鎌倉への旅行のようすを記したのが「十六夜日記」です。阿仏尼という冷泉家の女性が書きました。
息子の相続上の問題を鎌倉幕府に訴えるために、京都から近江路・箱根を通過し、百二十五里(約400km)の道のりを15日間で鎌倉に到着しています。
十六夜日記 国文学研究資料館所蔵
同じく鎌倉時代の紀行文として知られている「海道記」では、伊勢路から足柄山を通って、京都から鎌倉までの百三十里(約500km)を十五日で旅しています。これは鎌倉時代の前半の1240年代に書かれました。
用事があって京都から鎌倉へ向かう場合は、十五日程度の日数で旅していたのでしょう。
南北朝時代の道(室町時代前期)
日本全国で六十年も続いた南北朝の動乱の時代がありました。動乱の中でも、「道」は多くの人にさまざまな目的で利用されていました。
足利一門の今川貞世(了俊)は、一流の武将として名将のほまれ高い人物でしたが、多くの文学作品など著作物も残しています。「道ゆきぶり」、「鹿苑院殿厳島詣記」は、いずれも十四世紀後半の南北朝動乱末期の中国地方の旅行記です。
宿場や町のようすが生き生きと描かれていて、戦乱の時代でも「道」が人々の生活に欠かせない存在だったことがよくわかる記録です。
戦国時代の道(室町時代後期)
戦国時代には、軍用道路としての「道」が作られました。
軍隊を高速移動させるための、戦乱期特有の道路です。
現在の高速道路といってもよいでしょう。
武田信玄、甲斐の守護大名、戦国武将。
有名な戦国大名の武田信玄は、甲斐国(現在の山梨県)から信濃国(現在の長野県)を侵略するために、「棒道」とよばれた直線的な道路を三本も並行して作りました。
大軍を一本の道で移動させるのでは、長い一列縦隊になってしまって移動に時間もかかるし、渋滞も起きます。軍勢を三つに分けて、三本の直線道路を使えば渋滞もなく素早く移動できます。
この「棒道」は、越後の強敵上杉謙信と川中島で何度も対決するようになって一段と重要な役割を果たしました。
このような軍用道路専門の道は、古くは鎌倉時代の蒙古襲来に際して、京都六波羅から博多まで約600kmにわたって整備された「筑紫大道」が知られています。
当時の道は舗装道路ではなかったので、場所によっては雨でぬかるんだり崩れたりして通交が不便でした。
「筑紫大道」では砂と土を大小の河原石を混ぜて突き固めて、舗装道路として「道」を作ったのです。突き固めた舗装道路を馬で走って高速移動できるようになりました。
蒙古襲来絵詞、蒙古との戦いを描いた絵巻物
このような「戦の道」は、「道」としては特殊なものです。
「戦の道」以外の中世の道は、神社やお寺が沿道にあるのが普通です。もとからある道沿いに寺社を造営したかと思うくらいです。少なくとも伽藍の建築には多くの人々が資材を運んで往来したから、道沿いに建築するのは当たり前だったのかもしれません。
江戸時代の道
平和な時代が260年も続いた江戸時代には、有名な五街道をはじめ全国各地に脇街道など宿場が整備されて、「道」が発達しました。
「名所図絵」は、各地の名所を紹介する当時の旅行ガイドブックのようなものです。商用で急ぐ人以外は、名所を巡って観光しながら旅行することが流行したのが江戸時代です。
「お伊勢参り」という伊勢神宮参拝旅行の流行や、四国八十八か所札所巡りは、中世から数を増やして次第に庶民に流行しました。祈りのための旅行に多くの人が出かけるようになって、遍路道や参拝のための「道」が整備されました。
国立国会図書館デジタルコレクション 都名所図会
江戸時代には東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道と江戸から各地を結ぶ五街道をはじめ、全国に街道が整備された。特に幕府のおかれた江戸への街道の関所では、鉄砲を江戸に持ち込まないことと、諸藩の大名家の奥方が幕府に無断で江戸を出て国元に帰国しないように特に厳重なけいかいをしていたんだ。鉄砲を江戸に持ち込んで謀反の争乱を起こされないように取締り、また参勤交代で江戸に人質として住まわせている諸大名の奥方家族が勝手に帰国して国元で謀叛を起こさないように警戒していたということなんだ。